top of page

​私とは何か

 いつの頃だったか、ひどく苦しい思いをしたことがある。確かそれは、高校時代の中頃に始まりだし、大学受験に失敗して一年間浪人していた頃に、頂点にまで達したと思う。

 色々なことを考えた。考えるためにとても多くの時間を使っていた。いや、もしかしたら、あまり考えられてはいなかったのかもしれない。「勉強しなければ」と思いつつ、何もせず、いたずらに時を過ごしていただけなのかもしれない。でも、とにかく混乱していた。

 「将来何になろう?」と考え出したのが最初だっただろうか。それとも、「何のために勉強しなければならないのか?」と、ふと思ったのが最初だっただろうか。あるいは、もっと単純に「どこの大学の、何学部に入ろうか?」を決めようとしただけだったかもしれない。ともかく、それが分からなかった。将来は自分のやりたいことをやって生きていければ、と思っていた。けれど、その「やりたいこと」が分からなかった。

 人のためになることをしたいとも思った。自分が楽しく、幸せに暮らせればとも思った。自分の考え方や価値観を表現し、認めてもらいたいとも思った。やりがいがあって、ばりばり働けるような仕事に就きたいというのもあったし、どこかで静かにのんびり暮らすのもいいかもしれないというのもあった。今思えば、結構色々な「やりたい」があったのだが、その頃はそのうちのどれ一つ取っても、何か物足りない気がして、結局行動を起こせなかった。

 一方で、現代社会に対してとても批判的だった。あまり好きではなかった勉強を突きつけてくる受験制度、それを支えていると思っていた周囲の大人たちが、まず嫌だった。けれども、かと言って、それから逃げるのも違うと思っていた。ただ楽しければいいや、というのではだめだと思った。だから、そうしているように見えた同年輩の若者や、その頃よく口にされた「新人類」に対しても批判的だった。周囲のあらゆるものが、どこか間違っているように見えた。「自分は違う」と思っていた。

 だから、よけいに考えた。本当に価値ある生き方、意味ある生き方、充実した生き方とは、一体どんなものだろうか?自分は何をすべきか、何ができるのか、何がやりたいのか?何が正しく、何が間違っているのか?それらには、なかなか答えが出なかった。

 いや、むしろ、そうした問いはどんどん大きなものになっていった。そもそも「生きる」とは何だろうか?人間とはどんな存在なのか?そして、自分とは何だろうか?何に従い、何を信頼して生きていったらいいのか?何が価値あることなのか?一体世界とは何であり、そこに存在しているとはどういうことなのか?問いの立て方が、大きく、難しく、根本的になればなるほど、ますます答えは出なくなっていった。でも、まずはそこから考え直さなければならないとも思っていた。

 そんな中で、自分自身は何もしなかった。考えているつもりではあった。けれど、やることと言えばその「考える」ぐらいで、あとは何もする気が起きなかった。友達と遊び回っては、家に帰って一人「自分は何をしてるんだろう?」と陰鬱な気持ちになる。その繰り返し。事態はまったく進展しない。「自分は人とは違う」と思えば思うほど押し寄せてくる孤独感、将来のことがまったく決まらない不安感、勉強が手につかない焦燥感。

 楽しみと言えば、ときどき考える異性のこと。現実に存在するのかしないのかも分からないすてきな異性との出会いを、幻想的に想っているときだけ、何とも言えない甘い気分に浸ることができた。あるいは、どこかの偉人伝で読んだような、波瀾万丈の人生を送る自分。心沸き立つような高揚感と、充足感に満ちあふれた人生を送る自分。そんな将来をやはり空想しているときだけ、「恐いものなし」の誇大感にふけることができた。けれど、そんな夢うつつの状態から覚めれば再び待っている、つらいだけの現実。自分が無意味でちっぽけな存在に感じられ、「もしかしたら、自分が存在しているということこそ、ただの夢にすぎないのかもしれない」などと、ふと考えたりもした。「暗闇」という言葉が一番ふさわしい、そんな生活だった。

(大倉得史『拡散 diffusion―「アイデンティティ」をめぐり、僕達は今』ミネルヴァ書房)

 

「自分が存在しているということは、ただの夢にすぎない」は真実かもしれない。だからと言って、「暗闇」だとは限らない。

bottom of page